3月20日受難の主日(枝の主日)ミサが行われました。


 カトリック教会では、毎年、イエス・キリストの死と復活へと続く出来事を思い起されます。

 今日の受難の主日(枝の主日)ミサは、イエス・キリストがロバに乗ってエルサレムに入場したことを記念し行われます。

 神父様が、枝(棕櫚の葉)を祝別されて皆はその枝を手に伝統的な歌を歌いながら、行列で聖堂へ入っていきミサが始まりました。

イエス・キリストのエルサレム入城では、「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」と群衆から叫びが上がりました。しかし、この入城は、イエスの受難の序曲でもあったのです。

 

 

 毎年、今日の受難の主日ミサでは、受難朗読(イエスの裁判をめぐる一連の出来事)が行われます・・・・・

 

 

 わたし達はミサの時、使徒信条において「ポンティオ・ピラトのもとで」(使徒信条)と唱えるとき、受難に向かうイエスの歩み全体が思い出され、記念される神秘がいつも祈られるのです。

 すべてを奪われたように見えても、最後まで人を愛することはできる、そして、最後まで神に信頼して祈り続けることはできるというイエス・キリストの姿は、わたしたちも、何もかも失ってしまい、何もすることができなくなったとしても、それでもまだできることがあると語りかけているのではないでしょうか?